クリスマスシーズン
- YUUKO MORIUCHI

- 2025年12月20日
- 読了時間: 3分
更新日:1月18日

クリスマス期間は大学の集中講義です。
今夜も「仏陀の生涯と悟りの内容」についての小テストを作っています。AIの手助けで、以前作ったレジュメがあっという間にスライド化、美しい画像になる速さに驚きつつも、間違いはないかを確認しつつ、またスライドだけでは伝わらない、人の声(熱、温度というのか)があってこそという思いがあります。
そんな合間に届いた高齢女性からのSMS。何かの解約の手続きに、ついてきてほしいということでした。「いつごろお伺いできるだろうか」と、「今年は難しいだろう」と予定表を眺めました。アールグレイの紅茶を一杯。香りと味がせわしい気分を整えてくれました。あー、おいし。
お紅茶を頂きながら…
最近頭のなかを常に流れる葉加瀬太郎さんの「NIPPON」の曲を、スマホで聴いていました。悠久を、歴史を思わせるこの曲から、私が好んでたまにいっていた日本庭園の風景と、そこで過ごした時間がふっと蘇り、心が柔らかくほどけていきました。
やはり、今年もお寺から離れることはできず、無鄰菴や高台寺には行けませんでした。時折、時代の権力者たちが所有していたという美しい庭を眺め、ただ佇む時間が私の心をリフレッシュしてくれることをよく知っているだけに、やはり残念です。無鄰菴の青い毛氈に座り、あえて抹茶ではなく、シャンパン(スパークリングか)やクラフトビールを傍らにした夏の、冬の昼下がりの友人との笑い声が、遠い日の記憶としてまぶしく残っています。
あのような素敵な場所、とまではいきませんがを、善照寺でも、ゆったりとした時間をみなさんに提供できそうですが、それにはまずは現実的な課題を片付けねばなりません。本堂の天井や梁の損傷、それらの修繕費捻出…。そして続くアライグマによる被害。本堂天井だけではなく、山門の鯉が傷つき、弱っている。アライグマはその命を生きているだけではありますが、どうにもこうにも、毎度悩まされます。
ちょうど、釈尊の幼少時代の「樹下思惟」というエピソードについて思いました。以下
「なぜ、生き物は互いに食らい合わなければ生きられないのか。なぜ、私の父や民衆は、その殺戮の上にある繁栄を喜べるのか」 シッダールタはこの問いに圧倒され、祭りの喧騒を離れて近くのジャンブー樹(フトモモ科の木)の木陰に座り込んだ。強烈な悲哀(悲)と、生きとし生けるものへの憐れみ(慈)が彼の心を満たし、彼は自然発生的に瞑想状態(サマーディ)に入ったとされる。
仏教経典では、この時シッダールタが到達したのは「第一禅(初禅)」と呼ばれる精神統一の状態であり、欲界の粗雑な心の働きを離れ、純粋な観察がある状態であったとされる。これは、彼が直面した「生物学的な争いの不可避性」という絶望に対し、論理的な解決策(誰かを責めること)ではなく、内面的な静寂によって対抗しようとした最初の試みであったと言えよう。
さて、良いこともあります。ありがたいことに最近は体験講座の問い合わせがちらほら頂くようになりました。特に宣伝しているわけではなく、人から人へと伝わっているその声が、小さな一歩となって、寺の未来を支える糸口になるかもしれません。
あれやこれやと
夜は感情が揺れる時間。
世間の華やぎと寺の静寂の間で揺れるこの感覚を、これからも言葉にして、息抜きと軌道修正をしていきたいと思います。親鸞聖人が、無慚愧、無慚愧といって、妄想顛倒されつつ、それを内観され、常に浄土を観ておられたように。
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
調えるために書く。
そうこうするうちに講義内容、完成しました。





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