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8/15 80年目の戦没者追悼法要と盂蘭盆会と根上り松のライトアップ

  • 執筆者の写真: YUUKO MORIUCHI
    YUUKO MORIUCHI
  • 8月20日
  • 読了時間: 8分

更新日:4 日前


盂蘭盆会
盂蘭盆会
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      お内陣


皆さま、盂蘭盆会へようこそお参りくださいました。

今年は多くの方々にご参拝いただき、誠にありがとうございました。今回は新メンバーとして、若手ご門徒さまにもお手伝いをいただきました。心より感謝申し上げます。

当日は、僧籍を持つ12歳年下のいとこも駆けつけてくれました。彼はとても腰が低く、優しいと評判で、お参りの方々からも彼へのお褒めの言葉を沢山頂戴いたしました。

また、夜のライトアップ参拝につきましては、暗闇の中で法話をすればよかったのでは、との貴重なご意見をいただきました。確かに、静寂の中で法話に耳を傾けるのも良いものかと存じます。来年の参考にさせていただきます。


さて、当日ホワイトボードに掲示しておりました『歎異抄』第13条の言葉ですが、足を止めて読んでくださる方が多くいらっしゃいました。ここに改めてご紹介させていただきます。

掲示していたのは、原文の太字のみ。



『歎異抄』第十三条

「現代語訳は、原文下記」


【原文】

弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。

またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへば一千人殺してんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。

これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはち殺すべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人を殺すこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。

持戒・持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを、またうみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野山に鹿をかり、鳥を取りて、命をつぐともがらも、商いをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなりと。

さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどどいふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん罪も宿業のもよほすゆへなり。

さればよきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。

おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらうげなれ、それは願ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらうべきぞや。かへりてこころをさなきことか。


【現代語訳】

編集途中


「阿弥陀仏の本願は人間の理解を超えた素晴らしいものだからといって、悪事を犯すことを恐れないのは、『本願ぼこり(本願への甘え)』といって、往生はできない」という人がいます。

この意見は、阿弥陀仏の本願を疑い、善いことも悪いこともすべては過去世からの因縁(宿業)によるということを理解していない人の言葉です。

そもそも、善い心が起きるのも、過去の善い行い(宿善)がそうさせているのであり、悪いことを考えたり、してしまったりするのも、過去の悪い行い(悪業)がそうさせているのです。亡き親鸞聖人は、「うさぎや羊の毛の先についた塵ほどのわずかな罪でさえ、宿業によるものでないものはないと知りなさい」とおっしゃっていました。

また、ある時、聖人が私(唯円)に、「唯円房は、私の言うことを信じるか」とお尋ねになりました。私が「はい、信じます」とお答えすると、「それでは、私が言うことに背かないか」と重ねてお尋ねになりました。私が謹んでお受けしますと申し上げると、聖人はこうおっしゃいました。

「それなら人を千人殺してきなさい。そうすればあなたの往生間違いなく定まるだろう

これを聞いて私は、「おっしゃることは分かりますが、私のような未熟者には、一人さえも殺せそうにありません」とお答えしました。すると聖人は、

「それならなぜ、親鸞の言うことに背かないなどと言ったのか。」 とおっしゃいました。

「このことからよく分かるでしょう。もし何事も自分の思い通りになるのなら、『往生のために千人殺せ』と言われたら、すぐに殺せるはずです。しかし、一人たりとも殺せないのは、殺すことができるような因縁がないからです。自分の心が善いから殺さないのではありません。逆に、決して人を傷つけまいと思っていても、百人、千人と殺してしまうこともあるでしょう。」

聖人がこのようにおっしゃったのは、私たちが自分の心が善いことを「善」と思い、悪いことを「悪」と思って、阿弥陀仏の本願の不思議な力によって救われるという真実を知らないことを、お示しくださったのです。

以前、間違った考えに陥った人の中に、「悪事を犯した者こそを救おうというのが阿弥陀仏の本願なのだから」と言って、わざと好んで悪事を行い、それを往生の糧にしようという人々が現れ、だんだんと良くない噂が聞こえてきたことがありました。その時、聖人はお手紙で、

薬があるからといって、好んで毒を飲むべきではない。

とお書きになりました。これは、そのような間違った考えを止めさせるためであり、決して「悪は往生の妨げになる」という意味ではありません。

もし、戒律を厳格に守るような人だけが本願を信じられるというのなら、私たちのような者がどうして迷いの世界(生死)から抜け出せるでしょうか。このような救いようのない身でありながら、阿弥陀仏の本願に出会うことができたからこそ、本当に頼もしく、誇らしく思うのです。

だからといって、(縁がなければ)身に備わっていない悪事を、進んで犯すことなどできるはずがありません。

海や川で網を引いたり釣りをして暮らす者も、野山で鹿を狩り鳥を捕って命をつなぐ者も、商売をする者も、田畑を耕して生きる者も、結局はみな同じ(生きるために罪を重ねる凡夫)なのです。

聖人は、しかるべき因縁巡ってくれば人はどんな行いでもしてしまうものだとおっしゃいました。

それなのに、最近の信仰者ぶった人々は、いかにも善人だけが念仏を称えるべきであるかのように振る舞っています。あるいはお寺の掲示板に、「これこれの行いをした者は、寺の敷居をまたいではならない」などと貼り紙をしています。これは、外面だけ立派な修行者の姿を見せつけて、心の内には偽りを抱えている者ではないでしょうか。

本願を頼みにして犯してしまう罪でさえも、すべては宿業がそうさせているのです。 ですから、善いことも悪いこともすべて宿業の働きに任せて、ひたすら阿弥陀仏の本願を頼りにすることこそが、「他力」というのです。

『唯信抄』にも、「阿弥陀仏がどれほどの力をお持ちかを知っていながら、どうして『自分は罪深い身だから救われないだろう』などと思うことがあろうか」と書かれています。

「本願ぼこり」の心、つまり「こんな罪深い私でさえ救ってくださるのだ」という本願への甘えや誇りが生まれてこそ、阿弥陀仏の力(他力)を頼む信心も、はっきりと定まるのです。

そもそも、もし悪しき煩悩をすべて断ち切った後でなければ本願を信じられないというのなら、もはや「本願ぼこり」などという思いもなく立派でしょう。しかし、煩悩をすべて断ち切った者は、その時点で仏なのですから、仏を救うために阿弥陀仏が計り知れない長い時間(五劫)をかけて熟考された本願は、意味のないものになってしまうではありませんか。

「本願ぼこりはいけない」と戒めている人々も、煩悩にまみれた不浄な存在であるはずです。それこそが、本願の力に甘えていることにはならないのでしょうか。

一体、どのような悪を「本願ぼこり」と言い、どのような悪なら「本願ぼこり」ではないというのでしょうか。そのような区別をすること自体、かえって浅はかな考えではありませんか。




なかなか、深い人間考察。

全てに限界をもつこの身。

真の自己肯定感は、この部分を受け入れてから


皆さまの心に、何か一つでも響くものがあれば幸いです。

合掌

 
 
 

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