真の自己肯定感を獲た(信心を獲た)親鸞聖人
- YUUKO MORIUCHI
- 4 日前
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更新日:2 日前
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秋風を朝夕に感じるようになりました。
友人から、中森明菜さんのディナーショーへいくとメッセージが入りました。いいね
子供の頃は松田聖子さん派でしたが、昨年から、明菜さんのジャズ調の曲が胸に響く、いや染み入るようになっています。どこかのインスタ文字でみた「熟成された優しさ」が歌声にのっているようです。
そうそう、以前コロナ禍の頃、玉置浩二さんの歌声を甲子園球場で聴いて、魂が揺さぶられたというように感動して涙が出たこともありました。私もあぁいう素敵な60代になりたいな。熟成された優しさね
そんなことを思いつつ、
来週からはもう9月、夜ごと、授業の準備に追われる日々です。
AIが人間を凌駕する時代、私たちは、AIの使い方を間違えてしまうと、自ら考えることをやめてしまうかもしれませんね。そうなると自己肯定感を失い、何を生きがいにしてよいのか迷う場面も増えていくでしょう。これまでの時代の価値観とは全く異なる世界が開かれていくなか、不安のなか、自信をなくしていく人も増えるかもしれません。だからこそ、この時代に人を救う智慧とは何か。対機説法となるこの時代の智慧とは。改めて問われています。
不完全な凡夫のままでありながら、絶対的な自己肯定感を得られた親鸞聖人。その歩みに倣いお念仏の慈悲と智慧を『歎異抄』の言葉を思い起こしながら考えています。
親鸞聖人の関東時代の門弟、50才年下の唯円が記した、耳に残る親鸞聖人の語録(親鸞聖人没後20年か、30年後の記録)である『歎異抄』。その第4条には、
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。 聖道の慈悲といふは、物をあはれみ、かなしみ、育むをいふなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく、衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々
。
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