「袖振り合うも多生の縁」
とはよくいったもので、1億2千程の人がいるなか、たまたまご縁あって、会話をさせて頂く方々。
生まれ変わりしてきた過去世からの
たわいもないご縁で、今世もこのタイミング、出会っているのだと昔の人は考えていたようです
亡き方をご縁に、十人十色の思い出話と人生観を数時間かけてお聞かせ頂く。私の見えていなかった世界・状況・環境での人間模様に圧倒される日もあり、眠れなかったことも。
関心をもって、その方の見てこられた景色、心境を理解したいと傾聴するも、深く知る必要があったのかどうか、踏み込んでいい境界を見極められずに、自分の心の反応には戸惑うこともあり。
この世の中、起こる現象を、ただ自分の心のフィルターを通して観ているだけにすぎないと、自分に何度も言い聞かせ、フィルターは外すよう落ち着かせ整える。割りきれないまま、静かに受け止めていく。そのあと、何度も詳細に、咀嚼して。
数年前に出会った方。
こころの傷は癒えないまま、信じて愛する人ついていったそうです…
それはそれで幸せな人生のような、そうでもないような
私には計りしれません。
「愛」について、
なんだかそれを崇高なもののように捉えていることは、そもそも仏教的にはないことです。
仏教では渇愛といって、苦を生む一番辛い煩悩といっている。愛は自己中心的な執着という。誰かを私のものであるとか、永遠の愛であって当たり前と思うところから苦しみが発生する。ついやってしまいがちですが、人の心を縛ることなどできません。自分の心さえ確実に掴んでもいないのですから。とにかく、執着し、常に「一番に愛してほしい」と極端に狂いそうになりかけたときには、それは自己中心的な「渇愛」とみておくことは大切。それは煩悩で、人を苦しませるもの。その煩悩もまた無自性、空。それを意識して離れることが楽。
すべては諸行無常。愛も同じく。
愛をもってしても、出逢えば必ず別れなければならない(愛別離苦)ときがくる。それを恐れず、常にその一時の繋がりから学ぼうとする姿勢をもっていれば人生は楽しめるのでしょうね。何かを失っても、そこにはまた新たなものが入るスペースができたと前向きに受け止められたら。
とはいうものの、
人間だもの。最近は誰かに執着したっていいんじゃないかとも思います。
極端に苦しんでしまうときには、
諸行無常に準じて、そこから離れる術をしっておくことも大事ですが、
人生、覚めて、冷めてしまっても、面白くはないでしょうね。
自分の思いを抜いた、そのまま受け入れる愛へと転換できればそれが一番楽です。
久しぶりに、
さまざまな人生を聞かせていただいて
仏ではない人間の「幸せとは何ぞや」と考えさせられたのでした。
誰もが吐露できる場所を作るつもりが、浅学菲才で、受け止める力に欠けていたと、せっかくお話しくださった方にあとで申し訳なくなる日もあり。
まさに、「小慈小悲もなき身にて有情利益はおもうまじ…」です。
ただ阿弥陀如来だけは、慈悲のはたらき(心といってもいい)で、すべてを分け隔てることもなく、そのままを引き受け、更に智恵と慈悲の仏になろうとする心までも私に起こさせ、浄土へと生まれる者に仕向けてくださるという。
阿弥陀如来とのご縁をいただけば、臨終の恐れなく、迷うこも苦しみもありません。
以前供養の件でお寺に来られた方、
「死んでから○○は修行をしているんだ」と亡き方のことを仰っていましたが、恐らく、遺されたその方が無言の死者と対峙して、これまでの人生を振り返り何かしらの気づきの中、心の修養を今されているのだろうとお見受けしました。大切な方を亡くして初めて見えてくる世界が誰にでもあります。今一瞬の寂しさのなか、これからどのような人生を歩まれるのか、私も中距離から応援させて頂いております。
どの方の人生も、愛すべき人生。
亡き方をご縁に、私の人生だったかもしれない他者の人生に触れる機会をいただいて、私自身のものの見方も日々深まります。
人生の視野を広げて下さった先輩方に、深く感謝
合掌
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