

奈良に戻ってきてから、お寺で暮らすなかで、様々な人生との出会いから私には別の感性が芽生えてきた気がします。初めて、中森明菜さんの公式チャンネルからその歌声を聞いて、こころに染みいり、ぐっときております。今さらですが。
さて、『歎異抄』第十三条の
「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいをもすべし」
卒論の時点ではよく理解していなかったこの言葉の意味を、もうすぐ52才ですから今ではよく分かります。
親鸞聖人の悪人観がよく表れている一文です。
昨日、僧侶仲間とやりとりする中で、「業」について話していました。
その人が本質的に持っているものが、ご縁によって行動となる。
それは、自らの意志ではコントロールできないものなのだと。
人はそれぞれ、本質的に仏教的な「罪悪」を抱えています。
その表面化する性質は人によって異なりますが、亡くなってからも周囲を混乱させることもあります。
人間って、面白いですね。
だからこそ、「法名」を授かり、ゆくべき方向を定めてみる。
新たな私の人生を歩み始める――それは、なかなかいいものです。
それぞれが業を抱えたままであっても、ゴールが成仏であるならば、また新たな道が開かれていくのです。
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