宗教とは
- YUUKO MORIUCHI
- 5月3日
- 読了時間: 3分
更新日:5月5日

(今夜は、坂本龍一さんの音楽を聴く。
どう表現したらいいかわからないけれど、それはまるで、静かに心を調える儀式のよう。洗練された旋律が、まるで体になじむ香水のように、自然と五感に溶け込んでいく。なんつって。)
宗教の定義について、この前考えていた。
宗教とは、人生に起こる出来事が何から来るかという問いと、その究極的な答えや解決の方法の営みである。
宗教があるものに無条件の価値をあたえる心の在り方であるとすれば、ある人が究極的に重要であるとみなすものは、それが何であれその人の神(絶対的なもの)である。それは神的でないものであっても、彼はそれに自らを委ね、それによって動かされ、それに自らを縛る。宗教にはこうした悪霊的な危険が常に潜んでいることになる。「悪霊的」というのは本来究極的ではないものを究極的なものとすること、有限なものを究極的な地位にまで高めることであり、偶像崇拝とも呼ばれる。たとえば、国家や金に究極性が付与されるとき、国家主義者や守銭奴が生まれる。彼らが宗教を否定しようとも、宗教に限りなく近く、ティリッヒはそれを「準宗教」と名づける。それに対して、呪いや占いのように、自ら宗教であると名のりながら本質的に宗教的でない場合、それを「疑似宗教」と呼んで区別し、前者のもつ悪霊性の克服に、宗教の真の課題があるとされる。(『新しい教養のすすめ 宗教学』p18より)
お金を第一にして生きる人もいる。これは批判している話ではない。半年ほど前、ある方と話したことを思い出して。お金至上主義の人は、それが絶対的神であるのであれば、そのためには究極的な場面において、何でもしてしまうようだ。利益のために嘘をつくこともあれば、それまで大切にしていた親族、仲間さえも裏切ることがある。こうした準宗教的とも言える欲望は、果たして何をきっかけにしてその呪いを祓うことができるのだろうか。
人は、他者との交流の中で自己の精神的な在り方を問い直せるだろうけれど、よほど強烈な出来事がないと、お金至上主義な人は、それからは解放されることはないないのではないか。
他者との交流を通じて自己の精神的な在り方を問い直すことは確かに可能ではあるが、それが根本的な変容につながるかどうかは、人生経験の質や個人の受容力によるところが大きいだろう。
例えば、劇的な出来事、たとえば、経済的成功と精神的満足が必ずしも一致しないことを痛感するような経験が契機となって、価値観が大きく転換することはある。
とはいえ、現代社会では物質的な豊かさが重視されがち。そのため、精神的な充足を追求しようとしても、周囲の環境や社会的なプレッシャーが影響を与え、完全にお金至上主義から離れるのは難しいかもしれない。けれども、対話を通じて人が持つさまざまな価値観を知ることで、自分自身の考えを見直し、少しずつ変容していく可能性はあるのだろうか…ね。
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