親鸞聖人的「悪人」とは
- YUUKO MORIUCHI
- 6月6日
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親鸞聖人の悪人観について
簡単にまとめておくと
①悪人( 凡夫)とは
凡夫というふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず・・・
「凡夫」というのは、無明煩悩が身に満ち、欲や怒り、嫉み、妬みの心が絶えず湧き続け、臨終の一念に至るまでそれらから離れられない存在である。
親鸞聖人『一念多念文意』
② 夏目漱石の『こころ』における悪人
・・・そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。 平生はみんな善人なんです、 少なくともみんな普通の人間なんです。 それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。 だから油断が出来ないんです 夏目漱石『こころ』
③ 親鸞聖人の念仏観から学ぶ「凡夫(=悪人)」について、私の考察…
人間の内にある弱さ(たとえば「恐れ」)は、一つの仏教的な罪。
たとえば、自身の弱さを盾にして、自己弁護し、「悪いのは○○だ」と他者を責める行為。「自分は○○に騙されただけ」と他罰的な姿勢をとる。しかし、結局のところ、彼らが加担して行ったことは同じである。自分に言い訳をし、他人にも言い訳をしながら生きている者。世の中には、悪いと思いつつ、間違いとしりつつ、流されて(仏教的な)罪を作る、そのような人間は普通に存在する——つまりそれは凡夫であり親鸞聖人のいわんとするところの悪人ではないか。
②の夏目漱石の『こころ』の悪人をふまえて、普段は善人ですがご縁によれば「魔が差してしまう人」はここでいう悪人です。
親鸞聖人は、もっと自覚的に、自分は十悪をおかし、五戒を守りきれないと認めた人が「悪人」で、またここでいう「善人」とは仏の救いも必要なく自らの力や価値基準で正しく生きていける人(生きていけると思い込んでいる人も含む)のことをいうのではないでしょうか。
④念仏の道
これら、仏法の鏡に写し出される、自らの凡夫性(悪人観)に気づかされながら、他力のなか(如来の手の内——私なりの表現)で生きていく。
如来の本願力(他力)の救いのなかで、自身の弱さを認め苦悩しつつ、むやみにそこにとどまることなく、それぞれが主体的に、無駄に罪を作らぬよう、身・口・意を調えながら人生を歩む。
それこそが念仏の道である…
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