今日のお朝事は、なんとも清々しい気分でございました。
様々なご縁にふれ、日々私という人間を勉強させていただく。
無我(ゼロ)なる私が縁起として、「仮」に今存在していることを何度も確認しつつも、たとえゼロであっても我執からは、この世を去る日までのがれられない煩悩具足の凡夫です。
この時期、法話の原稿づくり。
これまで、「慚愧」中心で
重くなりがちであった法話から
(親鸞聖人は、痛烈きわまりない自己内省の言葉が多い。繰り返し阿弥陀の大悲の確かさに深い喜びと安らぎを味わいながら、心の底の煩悩の闇黒について、深く痛み、それを87才になっても和讃にして発露し、浄土を目指して生きていく生き方へと転換されていた)、
肯定されたい現代人に聞きやすいように、
「人生の質をよくするため」、や
「すべての出会いと別れに
臆することなく、
その時間を意味あるものとして味わう」というような、
生きるための、ある意味生存戦略としての仏教について話すことにしました。
親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願力(他力本願)で成仏する道を教えてくださいました。
自力修行で仏になる道を選んだのではありません。釈迦も結局、心身を痛め付ける苦行をやめて、縁起、無我を悟られたわけです。
自力とは、加持祈祷、善行、戒律を守ること、念仏をとなえる回数の功徳によって仏になる道。
他力からすれば、それらの諸行は、悟りの境地である浄土へ往生するたの査定とは無関係となります。
「縁起に生きる」のみ。
また、同時に四諦にみるように、
煩悩具足と信知することは必須。
私を常に俯瞰しておく。
思考を選択する。
振り返ってみたら、人生はすべて良縁しかなかったと、感謝できたのは親鸞聖人のお念仏の教えのお陰ですね。
今日はまたお寺についてやる気が湧きました。
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