(続き…)色々
- YUUKO MORIUCHI
- 2 日前
- 読了時間: 2分
更新日:15 分前

①念仏「南無阿弥陀仏」の一つの心、慚愧について。
『涅槃経』には次のように記されています。
二つの白法ありて、能く衆生を救う。一つには慚、二つには愧なり。
慚とは、自ら罪を作らず、愧とは、他を教えて作らせしめず。
慚とは、内に自ら羞恥し、愧とは、発露して人に向かう。
慚とは、人に羞じ、愧とは、天に羞づ。
これを慚愧と名づく。慚愧なき者には、名けて人と為さず、名けて畜生と為す。
「慚愧」については、過去にブログでも書いたことがありますが
私は、「慚愧」の心、特に次の部分が大切だと考えています。
自らの過ちを他者に語り、恥じることが、その人自身にとって重要な意味を持つのではないかと。告白、発露すること。
そして、それにより
同じ過ちを他者に繰り返させないようにすることも、同様に大切だと感じています。
②生き霊?!と化する「執着」について
~執着を手放すことが悟りの智慧
私自身は、土地環境が発するエネルギーや、人の思い(念と呼ばれるほどの執着)が、人や出来事に影響を与えることがあるとは感じています。
たとえば、
ふだん目にする風景や暮らしの中で、自然と心地よさや倫理観、思いやりの心が育まれていくように。
たとえば、幼い子どもや未熟な人が、親の気持ちを自然と汲み取って行動するように。
またたとえ物理的に離れていても
存在が影響を与えるように。
けれども
妙なトラブルやもやもやが続くとき、
それは誰かの作用ではなく
自分の責任として、心、ことば、態度を同じにして整えるしか術がない。周囲や相手は変えられないのだからこそ。一人になり、自分を調える。
今お寺で静に写経されている方などはそうなのかもしれない。それに集中しておられるときはすべて忘れているから。
また、厄払いやお祓いしたとて…
一時の気休め、だろうからね
Comments