私の頂いている浄土真宗の教えは、阿弥陀如来の智慧(光明)に照らされた者が、煩悩具足の凡夫(業縁よれば、十善戒、五戒を徹底して守りきれない者)と信知したとき、如来の本願力(慈悲)によって信心を賜り、臨終の一念に成仏(覚者と)させて頂く教えです。生前は成仏が定まったその歓びから念仏を称え、その人生のなかで、常に我が身を省みる思考パターン(自己中心性をみておく)となり、自利々他を意識し、報恩の人生を歩ませて頂く生き方へと転換されていくというものです。その生き方は多様性をもち、不完全でありながらも、その人らしく、毎日の心の持ち方や仕事、社会活動としても反映されていきます。
そして、臨終の一念には、仏(目覚めたもの)の智慧と慈悲のはたらきとなって、ご縁ある方々を自由自在に導く教えの存在となります。生きている側から見れば「良き先祖」になるといえるでしょう。
そのはたらきは、あなたの称える「南無阿弥陀仏」として現れます。その意味を聞いていくのが、浄土真宗の仏事です。
阿弥陀如来の前で念仏を称えながら、いかに自分がダサい(不完全である)のかを仏(如来)の智慧により見せられます。同時に、仏(如来)のどこまでも捨てることのない眼差しと完成された救いにより、そのダサさは、もはや不安の元ともならず、わたしなりに生きていこうとする勇気となる。誰も彼もが、格好つけずとも、それぞれらしさをもって生きていてよいと肯定されるお念仏の教えは、生きる上でまことの力となります。今輝く人も、今は頑張れない人も、諸行無常の上に、共にこの世界に認められている命であったと気付かされていくのです。
合 掌
釋 善優(住職)
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