報恩講シーズン到来
- YUUKO MORIUCHI

- 10月29日
- 読了時間: 4分
更新日:3 日前

10月は週末滋賀県のご寺院さまへ法話講師とし出講させて頂きました。
報恩講や住職継職法要のご縁です。
報恩講でのご讃題は、
罪業もとよりかたちなし
妄想顚倒のなせるなり
心性もとより清けれど
この世はまことの人ぞなき
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
(『註釈版聖典』606頁)
「信心の智慧」についてお話させて頂きました。
というのは、
私が受け持つ授業で
生徒から、「仏さまが全ての人をお浄土に生まれさせるということを本気で信じている先生はこわい」
というようなことを言われたことがあり、それについて現代人の感性に合うよう伝え方を工夫する必要があると考えたからです。カルトのように思われても困ります。初めて授業をした日に「素直に思うことを話してみて」と私が伝えたので、思うことを話してくれたのでありがたいことでした。
そのようなときには、
浄土真宗のお話では馴染みの少ない「縁起」「無我」「無自性」「空」「無分別智」などについて、話します。仏教学の視点から説明するようにしています。
「それなら分かる。」と。
「けれど、人間なんやから、自分に執着してしまうことはあっていいんですよね」と言う生徒。
そうです。
「ただ、苦しみすぎておかしくなってきたら、その湧いてくる思いも"無自性"、“空”だとみてみて。」とわたし。四諦八正道はすでに学んでいる生徒たちですから、理解はしています。
お念仏の救済(気づかされること)については、一度聞いたぐらいで納得できるものでもありません。何度も繰返し繰返し「聞いて」みないと…ね。
大慈悲は仏道の正因なるがゆえに…
また、そもそも「空」など、煩悩具足の凡夫には体得できないもの。
心は勝手に世界を作り上げ、波立ち、実体的に捉えてしまう。
だからこそ、繰り返しお念仏を称え、仏(智慧)の声として聞き、内観していくことが大切なのではないでしょうか。
あの親鸞聖人の晩年の和讃は、その境地を詠んでいるのではないか。
善鸞事件があり、覚信尼が一時寡婦となり、鎌倉幕府による専修念仏への弾圧も続いていました。
専修念仏を否定してくる聖道門の仏教界に腹立たしさも、心労も多かったでしょう。それでも、家族を持ち、世俗の中で「非僧非俗」としてお念仏を称え続けた。
それは、国に認められた修行僧でもなく、煩悩に振り回される俗人でもない、まさに世間的なカテゴリーにはまらない、外部からは、認められにくい立場であったと想像します。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
―『歎異抄』後序
また逆に、
実体的に考えるほうが受け入れやすい生徒もいます。
「小さい頃からそう聞いて育った」と話す生徒もいました。
たしかに、誰かの死に目にあうと、形として感じ取ることのほうが納得しやすいもの。
「お浄土へ還る」という言葉のやさしさに、私たちは自然とうなずきます。
私も父のことを思うと、そう言ってしまいます。
ただし、私も父母の供養のために念仏を称えたことはありません。
私たちは「有、無をはなるとのべたもぉ~」
でいいんですよね。
「成仏」とは関係はありませんが
法話では「情緒を磨く」という話もしました。明治以降、宗教的情操の重要性は何度も議論されるところです。
明治生まれの数学者の岡潔先生は
「善行は情緒を育てるのに意味がある」とおっしゃっています。
情緒は知のもととなる。
仏教的倫理観として
「五戒」は、常に生きる上での基準として善行として、意識すべきものと考えます。
空が体得できないわれわれ凡夫によって、なしてきたすべての結果が、“今”の世なのです。
仏教を学ぶということは、正しいことを信じ込むことではなく、
“縁起”の視点から、いま起こっていることを見つめなおすこと。
信心とは、仏の智慧を「聞くこと」から始まる。
その聞く行為そのものが、すでに「仏恩報ずる」歩みなのかもしれません。





コメント