「命とはなんと甘美なものか」
悟った釈迦でさえ、最期に言ったとか言わなかったとか。生死のこだわりを超えた釈迦ですから、この言葉は、本当かどうかはわかりません。
ただ、誰にとっても命とは究極的に愛しいものであるのは納得します。死が近づき、悔いが残る話は、一般的にもよく聞きます。
紅葉が、人の心を魅力するのは、
燃えるように美しく鮮やかに見えるのは、
このあと散ってしまうことを
生き物として感じとるからでしょうか。
といいつつ、冬もまた穏やかに過ぎ去る今日であり、春もまた来る
と思いこんでいる
実は、有限である命、そして、今奇跡的にある健康な命。その命の本当の使い道に、最近漸く人々が自然な流れで目覚めはじめたようにも感じます。
といえども、
日本は他の国に比べ、
たとえ政治が混乱していても、
お給料が上がらなくても、
悲しい犯罪が増えていても
今のところ
まだ、空爆もなく平和で良い国だと、今を目先の利益にとらわれて
生きておられる方も。
いや別に悪くも
間違えでもありません。
ただ、この平和を「天上界(欲が満たされた世界)」と見ているときには仏の教えは聞こえないでしょう
「人間界(悩みのある世界)」の苦を感じたときが、仏教を聞くタイミング。この苦しみの根元は何かと。その根本原因である煩悩を信知することによって、漸く仏の声が聞こえてくるのです。
仏教の真理とはまず
『四諦』
苦諦 この世は苦であるという真理
集諦 人生が苦に満ちている根本原因は、煩悩があるからという真理
滅諦 人生の苦を滅した境地が涅槃であるという真理
道諦 その苦悩を断って涅槃にいたる道が八正道であるという真理
煩悩とは、
貪り(不足)、
いかり(嫉妬)、
愚痴(縁起の道理に暗い、無明)、
妄執、
嫌悪、
疑い、
怠慢(無気力)、
不正に受け取った名誉、利益、尊敬、そして軽蔑。
浄土真宗の宗門校の授業にある「宗教」の教科書には
これを釈迦を襲う魔(マーラ)であると教えます。
これらを滅した境地が悟りであり、
解脱といい、
これができれば仏(覚者)となります。
よって、まず我々は知識として、煩悩を知ることから。
そして、
この逆を意識することが、
今どきの人間には、
実践しやすいかもしれません。
ということは、
既にあるものに感謝し、
人との比較で苦しむことはなんの意味ないことを知って(仏との比較はあり。
凡夫の自覚に繋がります)、
縁起の道理(もちつもたれつ、繋がりのなかに生きている)にあかるく、
邪推は控えめに
好き嫌いを思えば、そこから距離をおいて、
騙されたとて、人の世あるある、そんなこともあるさと冷静になって(罪を憎んで人を憎まず)
いつも自ら元気をだして
中枢にいるものこそ、全体の利益のために!
と読み替えて実践してみる。
思考の習慣として
自己の利益が全体の利益と繋がるような行為で
自利々他円満となるよう、命を使ってまいりましょう。
人生の質がアップ。
かなり前向きな
自己啓発的な仏教になってしまいました。
(これは少々、仏道といえば自力という、一般論に迎合しすぎ。
念仏は他力、阿弥陀如来の本願力による救い。戒めを守って仏になる道ではありません。慚愧と歓喜の教え)
智慧を知った上で、
そのまま、苦しみのなかに生きてしまったとしても、問題なし。啓発したいわけではないです。
智慧の種は既にあなたの中にありますから、そのあとはそれぞれの思いで。
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