泥のなかから真っ直ぐにのびて美しい花をさかせる蓮花。
最終講義は、仏典より「アングリマーラー」や「阿闍世」が救われていく話をし、「宗教」の授業を通してどなような人間を育てたいかがテーマ。
仏典では、人間が具える本質的悲劇、自己中心性をみて、人として救われていくには「慚愧の心」しかないと説かれている。また、その心あることが、「人」であることの証拠と『涅槃経』に説かれる。
慚(ざん)は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧(き)は発露して人に向かう。慚は人に恥ず、愧は天に恥ず。これを慚愧(ざんぎ)と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、畜生と名付く。
慚愧。
生きること自体、命を頂(食べて)く罪、殺生から始まる。
人に、迷惑を掛け、誰かに許されながら、また耐えながら、助け合ってともに生きていかなければならないもの。それは到底楽なことはないはないから、逃げたくも愚痴もでる。
繰り返す、慚愧ばかりならば、それは無慚愧。
いかりや長介さんの深いことば。
人は強くならなくていいんです。それは鈍感になることだから、と。
敏感では生きづらいけれど、
鈍感では、「人」ではなくなるのだろう。
慚愧無きものは、畜生と呼ばれる。
『涅槃経』より。
南無阿弥陀仏
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