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YUUKO MORIUCHI

分陀莉華 (白蓮華) ー 蓮の華

更新日:2023年8月11日



泥のなかから真っ直ぐにのびて美しい花をさかせる蓮花。


最終講義は、仏典より「アングリマーラー」や「阿闍世」が救われていく話をし、「宗教」の授業を通してどなような人間を育てたいかがテーマ。


仏典では、人間が具える本質的悲劇、自己中心性をみて、人として救われていくには「慚愧の心」しかないと説かれている。また、その心あることが、「人」であることの証拠と『涅槃経』に説かれる。


慚(ざん)は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧(き)は発露して人に向かう。慚は人に恥ず、愧は天に恥ず。これを慚愧(ざんぎ)と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、畜生と名付く。



慚愧。


生きること自体、命を頂(食べて)く罪、殺生から始まる。

人に、迷惑を掛け、誰かに許されながら、また耐えながら、助け合ってともに生きていかなければならないもの。それは到底楽なことはないはないから、逃げたくも愚痴もでる。


繰り返す、慚愧ばかりならば、それは無慚愧。



いかりや長介さんの深いことば。

人は強くならなくていいんです。それは鈍感になることだから、と。


敏感では生きづらいけれど、

鈍感では、「人」ではなくなるのだろう。


慚愧無きものは、畜生と呼ばれる。

『涅槃経』より。


南無阿弥陀仏

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