これからお彼岸法要が始まる。奈良は緊急事態宣言も出ていないし、どう考えても封じ込めるということなんて不可能で、今後はwithコロ〇でやっていくしかもうないのだと思うし、秋季彼岸会法要も報恩講法要も拙寺はお勤めさせていただく予定。
僭越ながら、既に昨年五月住職に就任した私の住職継職奉告法要も一年は見送ってしまったので、略式ではあるがお勤めさせていただくことにした。
さて、今年は善照寺にとって、この地に念仏道場として始まってから555年目の節目の年である。この寺も新たな時代に「痛み」を伴いながらもスタートしていくことがよいと考えている。ここは、先祖代々、祖父や祖母の面影をしのんでも、人間教育を目指していたお寺であったと。ただ、昔からおられたご門徒さんは離郷され、お墓も移された方も多い。今は、残念ながら護寺する意識や力はこのご時世ともあって弱くなっているとも思う。もちろん、ご協力してくださっている方々は若干おられるのだが(かなり感謝しております)。お寺へは先祖供養を入り口として、皆さん入ってこられるが、そもそも仏教伝道の場であるから、私は、しばらく、ゆっくりと伝道中心に整えていこうと思っている。本山へおさめる賦課金や、松の手入代も維持費も、お寺の修繕費もやる事は山積しているけれど、地道に縁ある方々と誠実にやっていこう。個と個でお付き合い。次の時代も、一部の人たちの利益となるよう動くような体制とは一線を引いて。その場その場の風見鶏も、弱きものの生き方として、その自覚の上に阿弥陀仏は救うだろうけれど、そこで仕方ないなあと、終わっていてはお念仏の真意は届いていない(のかもと)。いくら弱き者とはいえ、主体的に考えていくことをはなから諦めろなんて教えてはいない。人間は「畜生」とは違うので。
考えを放棄し、餌をくれるものだけについていき、慙愧の気持ちのないものは「畜生」と呼ばれる。By 『涅槃経』より
そういえば、お盆の時の地獄絵図、皆喜んでおられた。
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