人間万事塞翁が馬
- YUUKO MORIUCHI

- 6月14日
- 読了時間: 3分
更新日:5 日前

時折、女性グループが訪ねてくると、境内が美しいと皆さん、喜んでくださいます。ご門徒さんも「来るたびにお寺がきれいになっていく」と言ってくださって、四季折々の景観を楽しんでくださることを私も喜んでおります。
さて、善照寺での映画撮影は急遽無くなってしまいました。3日に撮影予定が発表されていたようで、15日が善照寺の撮影日だということを、ご存じの方がおられたようでしたが、くれぐれもお集りくださいませんように。どなたも来られませんよ。撮影予備日の19日も善照寺へは来られません。 私も「根上松」が映らないことは大変残念ですが、ご縁がありませんでした。
けれども映画の完成はとても楽しみです。安堵町が舞台ですものね。
東安堵内の撮影「三芳屋」さんと、「なもで踊り」の撮影日も、私は午前中は月参り、午後から法事が入っており、見に行くことも参加できません。残念無念でした。
話変わって、去る5月30日、奈良のお寺様で永代経法要があり、講師に呼んでいただきました。『愛別離苦から気づかされること』についてお話をさせていただきました。
身近な人の死をみて、自身の限られた命を知る。浄土真宗では、「死者」が成仏して仏縁となり、仏の教えとなって、後の者を導くはたらきとなる。死して、この世の真理へ導くはたらきとなるということは、空しく終わる人生ではないということ。終わった、無になった訳ではなく、有縁の方々を導く仏縁(真理のはたらき)となっていくのです。
今回は、『愛別離苦』から気づかされることについてのお話です。
結論から言えば、「無常」に気づかされていくことが大切であるということです。
この宇宙はすべてが影響しあい繋がりあって存在していて、そして、刻々と関係性は変化し続け、今、今、現象や形となって仮にあるに過ぎない。その形は、刻々と変化しているのだから、同じ状態、状況、形は保てない。関係性も形で捉えるならばある時期には賞味期限が見えるようになり、離れていく関係も、人生のなかにはたびたび訪れるのは当然のこと。その時に、それに長く執着して、悲しみ「過ぎたり』、痛み「過ぎる」ときには、「無常」の道理を思い出し、意識して真理を観て、変化の常を受け入れ、執着から静かに静かに心を離し、離れ、徐々に心の平安をとりもどしていただきたい、という内容をお伝えしました。
ただ、これは、無理矢理そうしなさいではなく、悲しみすぎて、苦しすぎるならば、智慧として知っておくことで、心が救われることがあるのではないか、というご案内まででございます。
限りある命、せっかくならば、無駄に自ら苦を生み続け、それにとらわれ時を無駄にせぬよう、極端にとらわれすぎるときには、意識して、この世の真理を繰り返し思い出してみる。「無常の道理」を受け入れ、今のご縁に生きてください、いや今のご縁をたんたんと生きることしか、究極的には苦からの解放はそもそもない、というお話をさせて頂きました。
また、「無常」を心にとめておくと、変化することが当然であるということから、一時、感情に振り回され過ぎたとしても、心の静寂は取り戻しやすく、次の選択へと意識を切り替え、折角いただいた命をいたずらに消耗することは減るのではないでしょうか。
もし、また、逆に
無常のなか、状態を保ちたいのであれば、怠りなく努力し続けなければならないことも常に確認しておくことができるようになる。
愛する人たちとの関係も、会社も、組織も無常が道理であるなら常に見直すことでしか保てず、存続できない。
そして、無常の中、毎日起きるさまざまなことは、きっと今の自分にちょうど合った必然な事柄が現れているのでしょうね。
(すべては「権化の仁」か。あ、今の私に向かって言いました。)
常に今を整理整頓、
心気の流れを調え、「正見(縁起の道理)」から観た精進、精進。




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