
おはようございます
大変遅くなりましたが、
令和7年もよろしくお願いいたします。
新年も早いもので、一か月が過ぎようとしています。この間、悲しいことに既にいくつかのお別れがありました。死別もあれば、別離もご報告頂きました。
愛する人の突然の死、または組織やグループ仲間、家族との関係が急に終わりを迎えるなど、人生の究極的な出来事が起こると、人はようやくこれまでの自分の在り方を見つめ直す機会を得ます。
ご葬儀や永代供養は、そのような気づきの場として、仏教のお話をお伝えすることが僧侶の務めであると感じています。
我々の苦しみの根源は、「執着」にあるとされています。その執着の心さえも、今溢れる感情も、所詮は「無自性、空(=0)」であるとを繰り返しお伝えしています。
たとえ悲しみの中でその教えが届かなくとも、その瞬間だからこそお伝えすべきことと考えます。
■苦しみのもと、「執着」について
苦しみの原因は、執着です。縁起として仮に成り立っていたものを、私たちは永遠であるかのように捉えてしまう。
ただ、この世に「愛」着という執着があるからこそ、家族が成り立ち、人が育ち、伝統が受け継がれてきたのも事実です。
完全に執着から離れることは、煩悩に満ちた私たち人間には不可能です。それが人としての自然な姿だからこそ、その執着が苦しみのもとであると伝えるしかありません。
この世のすべてが「諸行無常」であり、永遠不変な実体は存在しないという「諸法無我」の真理を知ることで、今の苦しみを少しでも和らげることができるかもしれません。仏の教え、すなわち「智慧の眼」を通して、いつの日か心が少しでも軽くなることを願っています。
■愛する者との別れを通して
愛する者との別れを経験された方々は、悲しみや不安を抱えながら、その中でなんとかこころを紛らわせ、無意識のうちに自分なりの「納得できる落としどころ」を模索しておられることでしょう。
何度も繰り返しますが、無常を実感された瞬間こそ、仏法に耳を傾けるタイミングです。
釈迦が苦しみの解決を求めて出家し悟りを開いたように、人は誰もが苦しみの中で真実に近づいていくのです。
■平穏を奇跡として受け止める
私たちは平穏であることを「普通」と捉えがちです。しかし、自然界の中では、今の平穏こそが奇跡的なものであり、とても有ることが難しいことです。
若い頃であれ、年老いてからであれ、挫折や思い通りにいかないことを経験するのは避けられません。その経験が厳しいものであっても、それが人生の気付きには必要なものだったのでしょう。
なぜなら、人はどのような出来事でも、それを「ただの現象」として捉えることができず、何かしらの「意味付け」をして生きているからです。
■受け入れるこで前向きに
ひとつの別れに悲しみ、思う存分泣き、いつか静かにそれを受け入れられるときが来るでしょう。
人は弱い存在でありながら、不思議と誰もが思った以上に強いものです。傷ついても、命がある限り、立ち上がり、前を向いて生きていくことができる。
癒えない悲しみは、いつしか心の引き出しにしまわれ、時が経てば新たな希望を見出しながら進んでいくのです。
■四苦八苦について
生、老、病、死、
愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦
これらの苦しみは、私たちが生きる中で避けることはできません。生老病死については、たとえ一時避けることができたとしても、最終的には「ありのまま」を受け入れていくしかないのです。
いつか、出来事を私心を交えずに直視し、正しいものの見方で捉えていただければと思います。
なぜ死があったのか、その原因を正しく見ることができず、新興宗教に依存したり、自責や他責に囚われたりする方もおられます。
虚しさや不安は、生きている証です。それが「無い」状態というものは存在しません。
だからこそ、与えられた命を、運ばれてくるご縁を活かして生きるしかないのです。
そのための生きる覚悟が必要です。
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