
言葉や物事の受けとり方は人それぞれ違うので、話せば分かると考えていると難しいものがあります。
話さないのが一番のリスク回避と考えてしまうと肝心なことには触れられないし、現状は変わらない。
仏教の「忍辱」である堪え忍ぶこと、人の迷惑を許すこと、優しさ(寛容さ)は、人が共存して生きる上で必要なこころ。人の世を諦めずにいることも大切なのでしょう。
どう説明したら害心がないことも一緒に伝わるか。
言葉の概念を一致させるには、同じ環境に長く共にいるしかない。
建設的な会話となるには、長い年月を掛けて対話を学ぶ教育土壌が必要です。
対話をあきらめ
安易に距離をあければ、何も状況は変わらない。人を信じる温かい心をもつ強さを身に付けたいと常に思うところですが。
「幸せのこころのお作法」を身に付けた仏の「み心」を学ばせて頂くと、この世で幸せになるには「忍辱」は大切に思います。
ですが、
情けないことに、話が通じないとなると、基本的にどうもさくっと冷めがちな私のこころです。
おいおい、「仏道の正因は大慈悲心なるがゆえに」だろ。
いつも仏に手を合わせ
目標確認していますが、
ボンブの私には、これがなかなか、難しいことこの上なしです。
そのような私を
阿弥陀如来はいつも信じてくれている。臨終には仏になる者として。実体的な仏として、捉えているわけではありませんが、やはりその視点はありがたいことです。だから、何度も考え直せる力が湧くというような。
やはり、その恩に報いる生き方に近寄りたいですね
たとえ、不完全なまねごとでも。
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