
2025年は、こころの「柔らかさ」を意識し、これまで以上に出来事を面白がって取り組んでいけたらと思います。
ここでいう「面白がる」とは、決して悲しみの場に関することではなく、私自身の人生において前向きな姿勢を指しています。
「しなやかさ」というよりも、もう少し温かみと厚みのある意味を込めて「柔らかさ」と表現しました。心と連動する体(行い)の両面で柔軟性を持ち、ものの見方を意識的に調整していきたいと思います。時代の大きな変化に対応するうえで、これはとても大切なことだと感じています。
昨年末の中山美穂さんの訃報には衝撃を受けました。老少不定とはいえ、私より4歳上の年の近い女性のあまりにも早すぎる死。「ボンブの私」はやはり自分基準で早い遅いととらわれて考えてしまいます。
葬儀で人の死に向き合うたびに、人生の儚さを感じます。そして、「人生はあっという間だ」と改めて痛感し、日々後悔のないように生きたいと思うようになります。50代に入った今、その思いは一層強まります。
(もっとも、「後悔にも意味がある」という言葉も耳にしますが…。)
時々同い年の人と話をすると、
「誰かの目を気にして行動するほど、人生は長くない」とか、
「品よく生ききることこそ長い目でみて大切よ」など、それぞれの価値観や生き方を聞く機会があります。
そうした中で、私も自分の生き方について考えていました。
個人の人生もありますが、
結論、私にはお寺としての理念を遂行する役割があります。それを果たすことが今は最優先です。
それにしても、このお寺の周辺地域はこれからどうなっていくのでしょう。この土地の将来の使い道は?
地域のビジョンを私は知りません。
周辺はご高齢の方が多く、バスなどの公共交通機関もそばにないため、運転を控える方々にとってはいずれ不便な暮らしがあるように聞きます。時には介護用品などをAmazonで注文して差し上げることもあります。
10年後、この町で人々はどのように暮らしているのでしょうか。今、この周辺の未来をイメージできないまま日々が過ぎていきます。
しかし、私は600年近い歴史あるお寺、お念仏道場から始まった「善照寺」について、未来へ遺していくため動いていければと考えます。
大きな寄付をお願いすることが難しい昨今。修繕費や維持費、本山への賦課金、さらには松の剪定代などは、毎年捻出しなければなりません。世の暮らしは物価高騰の中での経済的な負担はますます厳しくなっています。寄付に頼らない維持修繕費の確保が必要です。
だからこそ、お寺の持続可能なシステムを早急に整えたい。そしてその後は、本来のお寺の役割に集中したいと考えています。たとえば、人々の心を癒し回復に繋がるの傾聴活動や、僧侶としての「伝道」、ご縁ある方々の支援、そして居場所づくりなどに取り組んでいければと考えています。
離郷され、町外で暮らしている方々からは、私の考えや提案に理解を示し、賛同してくださる方も多いです。
さてさて、これからどう進んでいけるでしょうか😊。楽しみです
編集途中…
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